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鞴(ふいご:吹子)

たたら製鉄の歴史は鞴の発達と深く結びついているといえます。わが国で、最初に記録に現れる鞴は天羽鞴(あまのはぶき)という皮鞴で、真名鹿(まなか)の皮を全剥ぎにして作ったとされます(日本書紀)。具体的な構造は、間宮林蔵の「北蝦夷図説」と岩手県大槌町小林家「製鉄絵巻」に見るくらいしかないですが、いわば皮製の袋に竹あるいは木製の管をつけた程度のもので、その操作は「北蝦夷図説」の場合は、皮袋の管と反対側は口が開いており、その部分を手でつかみ、閉じて押したり、開いたりしながら弁の働きをさせて風を送ったものと想像されます。
その後、踏鞴が登場するが、「倭名類聚抄」(934年)では皮鞴を「ふきかわ」とし、これと区別するために踏鞴を「たたら」のこととしています。踏鞴が最初に記録に現れるのは「東大寺再興絵巻」で、12世紀の大仏鋳造の際、銅の溶解に使用されたと紹介されています。18世紀中頃(1754年)に書かれた「日本山海名物図会」の「鉄蹈鞴」の図では、構造は側面と底を粘土で固めた箱を中央で2つに仕切り、各室に吸・排気用の弁をつけ、これに合致するしま板をのせて、しま板を6人の作業者が踏んで上下運動させて風を送っています。図の説明として、鉄を溶かすのに十分な火力は踏み鞴によってこそ得られたと記されています。そして、まっすぐで滑らかな板を加工できる縦引きの大鋸、台鉋などの大工道具が普及してくると、吹差し鞴(差し鞴あるいは箱差鞴ともいう)が登場します。吹差し鞴は鍛冶道具として知られる代表的な構造をもつ鞴ですが、箱底部に特殊な工夫が加えられ、風の分配を均等にするほか、柄を押しても引いても常に風が送り続けられるようになっています。その始まりは明確ではないですが鎌倉初~中期頃とされ、普及するのは板材が安価に作られるようになる15世紀以降と言われています。
しかし、鞴自体の大きさには限界があり、たたらの炉を大きくするには、炉の左右に何挺もならべて風を送るという問題があって、中国山地では製鉄用はやがて天秤鞴に置き換わっていきます。
天秤鞴の発明の時期は定かではないですが、出雲・杠家の文書に、元禄4年に初めて使用されたとの記録があります。効果的な送風が可能な天秤鞴は中国地方で特徴的な発達、普及をし、大幅な省力と生産力を飛躍的に高めます。その仕組みは左右2枚のしま板の運動を司るために天秤構造としたもので、一人踏みと二人踏みがあり、1時間踏み続けて2時間休むという交代作業であったといわれます。(この作業に従事する作業者を番子と呼び、「代わりバンコ」という言葉の起こりとも言われています)
たたら製鉄における鞴の変遷は画一でなく、中国山地でも石見、出雲では踏み鞴→吹差し鞴→天秤鞴となっていますが、伯耆、美作地域では、踏み鞴→天秤鞴となっています。一方、奥羽地方では踏み鞴、天秤鞴はあまり使われず、大型の吹差し鞴(大伝馬と呼ばれた)が主として使われ、幕末期に水車鞴に移行します。ちなみに、天秤鞴への移行が進んだ中国山地で水車が使われるようになるのは明治になってからです。
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皮鞴「北蝦夷図説」より

 

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踏み鞴「日本山海名物図会」より

 

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天秤鞴の構造

 

①たぬきの皮製パッキング
②しま板、⑫を支点として  上下する
③土(空気のもれを防ぐ)
④空気の取り入れ口
⑤弁
⑥弁
⑦送風口
⑧ここから出る風は木呂  管を通って炉へ
⑨隔板
⑩踏み台
⑪天秤棹
⑫軸、しま板の支点